連載22
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ザ・ライトスタッフオフィス「漢字研究会」

コラム 「大勢」な話

 読み方が違っても同じ意味を表す語がある一方で、読み方が異なると違う意味を表す熟語がある。「大勢」などその典型だといっていい。
 まず、「おおぜい」と読むと、多くの人という意味になる。しかし、「たいせい」と読むと、おおよその形勢、大きな威勢、とまったく異なった意味の語になる。ところが、「大勢」にはさらにもうひとつの読み方があって、「たいぜい」とも読む。するとこれは多くの人、つまり「おおぜい」と同じ意味になる。ビミョー、という感じだ。
「礼拝」はキリスト教では「れいはい」と読むが、仏教では「らいはい」と読む。したがって、キリスト教会の「礼拝堂」は「れいはいどう」だが、寺の「礼拝堂」は「らいはいどう」と読まなくてはならない。このケースは、意味は同じ神仏を拝むという行為を指していても、宗派によって読み方が異なるというものだ。
 次は「大家」。これはどう読むのだろうか。小学生でも「おおや」という読み方は知っているだろう。貸し家の持ち主、家主のことだ。しかし、この熟語は「たいか」と読むこともできる。「日本画の大家」を「おおや」と読んでは台なしだ。「たいか」はその道に優れているという評価が確立した人のことだ。ところが、「大家」の読み方はそれだけではない。えっ? と思われるだろうか。もうひとつ、「たいけ」という読み方がある。「たいけ」? いったい何だ、それは? 財産があって社会的に地位の高い家を「大家・たいけ」という。「あの人は大家の出で……」なんて使う。だから、「大家」という熟語を用いて、「うちの大家(おおや)はこの地方きっての大家(たいけ)の人で、しかも郷土史の大家(たいか)だ」てな文も綴れる。実際にこんな文にお目にかかったら、目が点になってしまうだろうが。
 この「大家」に似ているのが「大所」だ。訓読みで「おおどころ」と読むと、構えの大きな家、財産家とか、勢力のあるおもだった人という意味になる。「歌舞伎の大所」なんて使われ方をする。ところが、「たいしょ」と音読みすると、「大所高所」「大所的な視点」などと、全体を広く見通す立場という意味の語になる。「大」は、このように訓読み・音読みの語で意味を異にするものが多い。
「大」の最後は「大地震」だ。これは、ふつうには「おおじしん」と読まれてきた。江戸時代末期、水戸藩の藤田東湖が江戸藩邸で死んだ「安政の大地震」は、「おおじしん」と読む。あれっ? と思いませんか。「どうも自分は『だいじしん』と読んでいる気がする」そう、それでいいのです。テレビやラジオなどでは、大概「だいじしん」といっているのだから。しかも、アナウンサーは「おおじしん」を「だいじしん」に読み間違ったというわけではないのだ。どういうことかというと、気象用語では「大地震」は「だいじしん」と読むことになっている。少し詳しくいうと、マグニチュード7以上の地震を気象学では「大地震」と定義し、「だいじしん」と読むことになっている。それに対して一般用語の「おおじしん」は、体感で大きいと感じる地震のことをいう、というわけだ。
 先ほど「礼拝」の話が出たが、仏教用語に「開眼」がある。日本史の教科書などに「奈良の大仏の開眼供養」というのが出ていた。これは「かいげん」と読む。仏道の真理を悟ること、芸道のコツを悟ること、新たに仏像・仏画ができたときの儀式、という意味だ。「演技に開眼する」などとも使われる。これに対して、「開眼手術」の場合には、「かいがん」と読む。「かいがん」と読む「開眼」の意味は、視力が乏しかった目を見えるようにする、という文字通りの意味だ。
「角」という漢字には、いくつかの読み方がある。常用漢字表を見ると、「カク・かど・つの」という読み方が載せられている、ほかにも「すみ」などとも読む。その「角」を使った「一角」はどう読んでいいか、これだけではわからない。「いっかく」「いっかど」「ひとかど」という三通りの読み方があるからだ。「街の一角」「味方の一角が崩された」「一角獣ユニコーン」とくれば、「いっかく」だ。しかし、意味は少しずつ異なっている。「街の一角」の「一角」はひとつのかど、「味方の一角」の「一角」はひとすみ、「一角獣」の「一角」はひとつのつの、と意味をずらしている。それでは、「一角の人物」はどう読むか。読み方が二通りある。「いっかど」とも「ひとかど」とも読める。どちらでも、意味は同じだ。ひときわ優れたこと、一人前であること、がそれである。
「手練」の読み方には、かなり苦労する。まず「てれん」と読める。「手練手管」の「てれん」だ。人を丸め込んだりだましたりする技術のことだ。「てれん」という読み方は湯桶読みだなと思っていたら、次に訓読みで「てだれ」とも読む。これは技術が優れていること・人、という意味だ。同じく技術が優れているといっても、「てれん」の「手練」は丸めたりすかしたりする技術だから、決して褒めことばとはいえない。「あなたはテレンな人ですね」なんていったら、大変なことにもなりかねない。この場合には「あなたはテダレの人ですね」といわないといけない。さらに、「手練」を漢語風に「しゅれん」と読むこともある。「しゅれん」は「てだれ」と同じ意味で使われる。
「追従」も、読み方に気をつけたい。「ついじゅう」と読めば、人の後につきしたがうことだが、「ついしょう」と読むとへつらっておべっかをいうという意味になる。「ついじゅう」が「追従」の本来の読み方で、「ついしょう」という読み方と意味は日本で生まれたようだ。
「末期」も、どう読むかでずいぶん意味を異にする。「まつご」と読めば、一生の終わり、死に際のこと。「まっき」と読むと、終わりの時期という意味。「中世末期」とあれば、「まっき」と読まないといけない。そんなわけで、「末期的」を「まつごてき」なんて読んだら、「河童の川流れ」なんて弁解だけではすまないことになる。というのも、漢字を川の中の河童のように操れないことを暴露してしまったのだから。
「荘子」は、それを著したとされる、中国・戦国時代の思想家の名前としては「そうし」と読むが、彼が著したとされる書物名としては「そうじ」という読み方をするようだ。こうやって、江戸時代では思想家・荘子を論じているのか、書物の『荘子』を論じているのか、区別したのだろう。儒学者の知恵ということか。
「判官」で「判官びいき」と来れば、これは「ほうがん」と読む。平安時代、検非違使の尉を「判官」といい、「ほうがん」と呼んだ。源義経は朝廷からこの位を与えられ、これが原因で兄・頼朝と仲違いしたことはあまりにも有名だ。しかし、「判官」は一般的には「はんがん」と読んで、裁判官のことをいう。
 最後に、「形相」を取り上げる。これは一般的には「ぎょうそう」と読む。「凄まじい形相」という表現を、ときどき見かけるにちがいない。顔つき、すがたという意味の語だ。しかし、哲学ではこれを「けいそう」と読む。「形相」とは、ギリシャ哲学で「質料」に対する概念で、質料に一定の形を与えて現実的な存在として成立させる原理のこと。プラトンの「イデア」、アリストテレスの「エイドス」の訳語として生み出された。英語では「フォーム」と訳されるらしいので、それほど違っていない。これなど、西洋の書物の翻訳という明治以降に課せられた必要性から、新たに生み出された読み方・意味だといっていい。