連載7
あなたはこの漢字を読めますか?
ザ・ライトスタッフオフィス「漢字研究会」

第二章 仕組みを知れば読めてくる

■漢字のはじまりーー倉頡伝説

 そもそも言い伝えによると、漢字が中国で誕生したのは、はるか昔、黄帝の代(紀元前二七〇〇年ごろ)までさかのぼる。
 倉頡(そうけつ)という人物(蒼頡とも表記する)が、砂浜を歩いた鳥の足跡を参考に作った「倉頡文字」が最初だとされている。だが、この言い伝えにはどうしても無理がある。多くの人が共通して使う文字が、たったひとりの人間によって、それも短期間(倉頡が一生かけたとしても)にできあがったとは考えにくいのだ。
 そこで次のような説が有力となってくる。
 まず「倉頡」の「倉」の字を見てみよう。「創造」の「創」の字の左半分である。つまり「倉頡」の「倉」は、「創造力があり、新しいものを次々と作り出す力や才能がある人」を表しているというのである。
 では、もうひとつの「頡」の字は? 
 「頡」の字を分解すると、「頁」と「吉」からできていることがわかる。そして、「頁」はあたまを、「吉」はぎっしりとつまった状態を意味する。つまり、「頭に知恵がぎっしりとつまっている状態」を表している。
 要するに、「倉頡」とは「頭の中に、次々と新しいものを産み出す知恵がぎっしりとつまっている人」という意味であると解釈できるわけで、最初の漢字は、多くの知恵者がつくった文字だと解釈できるわけである。
 この言い伝えの解釈はさておき、考古学的な史料に裏付けられた漢字の起源は、殷の時代(紀元前一三〇〇年ごろ)に求めることができる。

■発見された骨に刻まれた "文字"

 清朝末期の一八九九年秋のこと。孔子を祭る北京の国子監で祭酒(祭典を司る長官)をつとめていた王懿栄(一八四五〜一九〇〇年)は、マラリアを患っていた。
 当時は、「竜骨」と呼ばれる亀甲や獣骨がマラリアに効くといわれており、王懿栄は、北京の宣武門外にあった達仁堂という漢方薬店に竜骨を買いに行き、偶然、竜骨の上に、文字らしきものが刻まれているのを見つけることとなった。
 そもそも金石学(金属や石に刻まれた文字を研究する学問)の著名な学者だった王懿栄は、これが殷代(商王朝)の文字に違いないと考え、店にあった竜骨ばかりではなく、あちこちの店から一五〇〇点以上の甲骨文を収集した。
 調べてみると、これらの竜骨が見つかっている場所は、河南省安陽の小屯村だった。農民たちは竜骨を密かに掘っては、売りさばいていたのである。
 その後、竜骨の出る場所は次第に知れ渡り、一九〇八年、著名な学者の羅振玉(一八六六〜一九四〇年)が現地を訪れる。彼はここで、史料に残されている商の帝王の名前が甲骨文の記述と一致することを発見、収集した甲骨文と各種の器物を収めた『殷墟古器物図録』を出版した。
 この殷墟の本格的な発掘が始まったのは一九二八年のことだったが、大量の甲骨文のほか、宮殿址や陵墓なども発見された。どうも、現段階で発見されているもっとも古い文字のひとつが、この殷墟で発見された亀甲に刻まれたものであることは間違いないのである。
 さて、この文字は、占い【卜(ぼく)】の結果を書き込むための使用された文字と考えられ、甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼ばれ、その後、漢字へと発展していったものと考えられている(甲骨文以前にも文字らしきものは存在していたが、これは漢字とは別系統に属する文字だとされている)。
 ちなみに、当時の卜は次のような方法で行われていたと想像されている。
 まず、亀の甲羅や牛の肩胛骨などの裏側に小さな窪みを穿ち、火にあぶって熱した金属棒(青銅製といわれる)を差し込む。しばらく差し込んだままにすると熱せられた表側に亀裂が生じてくる。この亀裂の形で吉凶を見るのだが、同時に、その甲骨に、卜の内容・結果を彫りこんだ。
 現在までに発見されている最古のものは紀元前一五〇〇年ごろのものだが、すでに、現在の漢字との共通点が数多く見受けられる。おそらく、もっと以前から徐々に発展し続けてきたものと考えられている。
 さて、その後に登場してくるのが、青銅器に刻まれた金文という文字である。金文は次代の周に引き継がれ、さらに中国全土に広まっていったが、春秋戦国時代になると地方ごとに通用する字体が違うという事態が発生した。
 それではなんともつごうが悪いということで字体統一に乗り出したのが、秦の始皇帝だった。その結果、生まれたのが小篆だったが、次第に崩れて隷書を生み、隷書がさらに崩れて草書、楷書、行書を生んでいった。
 さらに、宋の時代には楷書が様式化され、宋朝体と呼ばれる字体が誕生。明代には、清の時代の康煕字典に代表される明朝体が確立する。現在、書籍やコンピュータ文書などの印刷に使用されている漢字の書体はこの明朝体が中心である。